「雨の日はスクリャービンを聴く」ことが僕にとって数少ない自己主張であることはいつか誰かに述べたと思う。五月雨の今日、ここにドビュッシーフォーレが加わることになった。雨音は彼らの作品に通奏低音のように溶け合うかのようだ。聴き手の脈拍はやがてその音色に共鳴することだろう。
日が落ちていくにつれて、室内は琥珀色の照明で彩られ、散乱した本や衣類が柔らかに浮かび上がる。そんな情景を虚ろに眺めながら、ゆっくりと中井久夫著『時のしずく』を読む。

時のしずく

時のしずく

 以前、松浦寿輝が彼のある著述を「とてつもなく知的」であると評した。この作品もまた<知的>であることには変わりないのだが、寄せ集められた幾多のエッセイ全体を支配するのは冷徹で峻厳な知性ではなく、柔らかな陽光や清冽なせせらぎに身を置くように、予想以上に身近な経験に似た、知性への誘いである。何よりも、穏やかで真摯な語り口が心地良い。
 著者に直接会ったことは一度もないが、本学の高名な精神科医として、そしてヴァレリーの詩集の翻訳を出し、授業でも度々その博識が教官の口上に登るせいか、中井先生は僕にとって全くの未知とはいえない存在である。かといってすぐにでも会って話してみたいか、といえば、不躾な言い方になるが、その気は全く湧かない。優れた精神科医は五分も話せば、その人間の人となり、過去、現在、ときには未来を言い当てるのだとか。
正直申し上げて、著者と直に話すのは怖いのです・・・

「主観的時間経過は年齢の三乗に反比例する」すなわち、年齢が増えるほど時間は早く過ぎるという感覚(「ジャネの法則」)を切り口に親子の時間を論じた『母子の時間、父子の時間』がとりわけ素晴らしい。