バースデイ現象

こっちの大学へ卒業証明書を取りに来た後、今日は一日中ヴァレリーを読む。今日は恩師マラルメへの貴重な言及である「最後のマラルメ訪問」。僕はいわゆる完成された作品にしか興味が向かない。彼の青年期に書かれた詩の断片や断章を読むのは決して快楽を得られる読書にならないと言う訳ではないが、読んでいてつらい。「愚かしい恋情、それゆえのみじめなていらく、こもごも訪れる文学への情熱と絶望、・・・それをまえにしてヴァレリーは『嫌悪と関心、逃避と解析とに引き裂かれ』ていた」(『ヴァレリーの肖像』、清水徹、p.80)哀れな青年はやがて、その苦悩と絶望が沸点に達したとき、イタリアのジェノバ文学史に名高い知的クーデタ、いわゆる<ジェノバの夜>を<体験>し、「知性の詩人」へと変貌することを自らに課した。知的クーデタはたんにランボーマラルメの詩には絶対に勝てないといった「文学的絶望」に限定されることでも、ある日突然、降って沸いてきた偶然の産物ではなくて、のちのヴァレリーが過去を清算するために必要とした自己神聖化であった。しかしながら、誰も彼を非難し嘲笑することはできない・・・
マラルメApparition「出現」も併せて読み直した。「わたしはさまよっていた、古い石畳に目をこらして、/そのとき、夕暮れの街に現れ出たのだ、/にこやかなお前が、髪に燦々と陽を浴びて、/わたしは見たと思った、光の冠をいただいた妖精を、/かつての甘やかされたこどものころ、/わたしの美しい夢の上を過ぎていった妖精、ゆるく握った両の手から、/いつも薫り高い星の白い花束を雪と降らせた妖精を。」
ヴァレリーの知性をもってしても、いや、あまりに研ぎ澄まされていたためにかもしれないが、彼は生涯、幾度も嵐に見舞われ懊悩する。
バースデイ現象:毎年同じ時期に同じ精神状態に陥ること。嵐は過ぎ去ったはずなのに海はふたたび大荒れの様相を呈することがあるのだ。