大震災10年目の今日

昨日はセンター試験の国語I・IIの問題を解く。小説の問題のみに集中力を注ぐ。一問を落とし、ほどほどに満足。また来年があるさ。
深夜にリラダンの『見知らぬ女』(「残酷物語」,1883)を読みきる。劇場での男女の邂逅。芝居がかった青年の愛の告白を巧みにかわす貴婦人の機知に富んだ言葉の応酬。結末はとりあえず<悲劇>といえるだろうか・・・。丹精で緻密な原文を齊藤磯雄の流麗な訳文を脇にして翻読しながら、このあまりに19世紀的な、あまりにブルジョワ的な小説にしばし酔う。「研究」することなく、ただ読んで筋を追いかける悦び。それは果たして稚拙な悦びのそれなのだろうか。確かに横のものを縦に置き換える行為は解釈や分析以前の一元的な作業だろう。しかし、外国語を学ぶ人間に唯一許された特権的な快楽、それは(とりわけフランス語がそうなのだが)その言語の建築的な構造を少しずつ瓦解してくこと、言語の織物の糸を一本ずつ解きほぐしていくこと、そしてふたたび、他の言語へと積み上げ、織りなおしていくという遡行的な試みを経験できることにある。その行為はたんなる徒労にのみ報われるだけとは限らない、何か、そう何かとしか言いようのない魅惑に満ちた試みとなるだろう。どんなに完璧な理論を駆使した論文も「物語」それ自身を超えることなどない。ことばは建築物、織物、あるいは獣か・・・テクストに素手でつかみかかり血まみれになりながらことばと戯れる。打ちのめされ、瀕死の痛手をこうむりながらも、そこから這い上がろうとする姿勢は美しい・・・、とかつてヴァレリーが言っていたらみんな信じて引用してくれるのに・・・