bonoir

あ〜Bちゃんついに書き込むよ。「なんでもいいから」ってそれやっぱむずいって。
今日何したかな・・・。7時に起きて、ラジオフランス語講座応用編を聞こうと思ったけど寒すぎて断念。録音すればよかった。んで2時間目のフランス語会話の授業にでる。
講師はフランス人。今度一緒にフォアグラを食べることになった。そのあと電話で留学先決定。(ポール・ヴァレリー大学)Bちゃんに恐喝されてはてなへ入会。自宅に帰りログイン。あ〜Bちゃんついに書き込むよ。「なんでもいいから」ってそれやっぱむずいって。今日何したかな・・・。7時に起きて、・・・って円環していくオチは古いよね。
とりあえず、真似して本のタイトル羅列しとこ。え〜っと、まず、『講義録III』(ベルクソン)から。ベルクソンがいうようにさ、「分析と呼ばれるのは、ある全体をその部分に分解する方法のこと」なわけ。当たり前だよね。でも、それはしばしば、「現実分析と観念分析に識別される」のさ。この違いはなにかっていうと「最終的に、それ自体で存在しうる諸要素に達するのが現実分析」になるわけ。もう分からなくなってきたね。これを凌駕する現象は『死に至る病』(キェルケゴール)にも現れるね。すなわち、「人間とは精神である。精神とは何か?精神とは自己である。自己とは何であるか?」ん〜何かなぁ〜。答えは「自己とは自己自身に関係するところの関係である。」ほほーっ。んで、「ようするに人間とは(自由と必然の)総合である。・・・二つのものの間の関係においては関係それ自体は否定的統一としての第三者である。それら二つのものは関係に対して関係するのであり、それも関係のなかで関係に対して関係するのである。」なるほどね!・・・って分かるか!あんまりしつこいと飽きが来るからこの辺にしとくね。んちゃ。